朝が来る前に

 くぐもった心臓の音がする。高校時代の音楽の先生は、「鼓動の速さは自分で調節できる」と言った。実際に、均等に時を刻んでいるメトロノームのコツ、コツ、という音に鼓動を合わそう、合わそうとすると、ぴったし同じになった。あの時の衝撃は忘れられない。しかし、その時心臓の音質まで調節できるとは聞いていなかったので、やはり僕は不安なんだなと思った。

 落ち着いたブラウンの厚手のカーテンは開けたままにしていた。薄いレースのカーテンだけが揺れている。窒息しないように少しだけ窓を開けているのだ。今日が終わって明日が来る。でも、僕はまだ眠っていないから今日が終わっていない。僕の基準で朝を定義付けるなら、眠りから覚めた時だ。眠りはおおむね6時間ほどの間、瞼を閉じて無防備になること。一言も発さずに(寝言は自分では分からない)たまに姿勢を変え、意識の範疇の外で記憶にない時間を過ごす。夢を見ることもあるけれど、それは自分という実態が体験したことではなく、どこか浮遊した自分が体験したことに過ぎない。そんな無意味とも捉えられることを毎日繰り返すことが睡眠だ。では昼寝はどうかと言われるが、あれはそもそもの時間が足りない。睡眠の続きを補っているだけである。そして、何かしらの意味を必ず持つ。腹が膨れてどこかの神経が緩んで誘われるように眠る。活動しなければならないと思っているのに反して、身体は正直だ。なんでもない日曜日に何もすることがなくて昼寝をすることもある。あれは、時間を潰しているだけだ。つまり、睡眠と昼寝を僕は別のカテゴリーに入れていて、昼に寝たからと言って今日が終わる訳ではないのだ。簡単に言えば夜に眠るというだけなのだけれど。

 今日は途轍もなく長い日になるという覚悟はできていた。無理やり寝ないでおこうと努力しているのではない。オールをするような体力は今の僕には備わっていない。「朝が来る前に起こしてね」と言われたから、君が定義付ける「朝」を待つという使命があるのだ。僕と君との間で「朝」にずれがあることをもう君は何年も前から知っていたから、「ちゃんとお日様が昇ったときが朝なの。大体5時くらいだよ。でもそれより前に起こしてね。誰かが外を歩き出した時ね。いっぱい外に人がいたらもう朝が過ぎちゃってるの。難しいなぁ……朝が来てからじゃ遅いんだから。絶対だよ」と念押しされた。「分かった」と一言だけで返事をした。

 物音を立てずに立つという術を得た僕は、窓をぼんやりと見ていた。朝日がどこから昇ってくるのか、勝手にクイズでもしようと考えた。自分の部屋なのだから窓は西側に付いていることぐらいは把握しているが、方位磁針が、磁石を近づけると狂うように、僕の頭もぶんぶんと振ったら狂うかも知れない。闇の塊は、まだ低いところで留まっている。先程「朝日」と呼んだ太陽は、しばらくすると「夕日」に姿を変える。全くの同一人物なのに、1日に何役もしなければならないので、切り替えの早い名役者だなと思った。

 玄関には、君にとっての必需品が詰まった鞄がある。衣類、財布、通帳、印鑑、筆記用具、資格を取るために勉強したノート、僕がサン・ジョルディの日にあげた本、新調したスーツ……。昨日の荷造りをしている君の横で、「俺もその中に入れてよ」と半分冗談で半分本気で行ったのだけど、「もう!そういう芸人さんじゃないんだから。こんなに小さな鞄なんかに入るわけないでしょ?」と笑いながら君は言った。君は鞄の口を開けようともしなかったから、多分そういうことなんだと分かった。

 僕は、君の間違いに1つ気がついていた。「朝が来る前に起こしてね」という言葉だ。今は冬。つまり、日が昇るのは遅い。君は夜更かしをするのが苦手だったから、想像上での朝を言ったのかも知れない。それか、深夜2時に「なんかむしゃくしゃするからゲームしよ」と珍しく僕を誘い、2人でゲームを隣人の迷惑にならない程度の声量でプレイし、「うわぁ。外がオレンジ色になってるね」と言った夏のことを覚えていたのだろうか。もしそうなら、君が家を出る時間は夏を基準としている。真冬の朝というのは、君が「まだ夜じゃん」と言うであろう時間なのだ。決まった時間に散歩をする人や、決まった時間に通勤する人は、暗闇の中でも朝となる。朝日が昇る以上に、人が行動し始めるのは朝を定義付けるのに必要な要素だ。

 今回君が旅立ちを迎えるにあたって、特別なお祝いもしてあげられなかったけれど、特別をあまり欲しがらない君だったから僕は助かった。でも、10月31日は必ずカボチャを使った晩御飯だったことを知っていた。特別を警戒し、君なりの特別を僕の日常に溶かして有耶無耶にしてしまったのかも知れない。

 もうすぐ誰かが外を歩き始める。見知らぬ他人が君の朝を告げるのは許せなかった。僕が君に託された朝だから、僕が君の朝を決めるのだ。本当は、誰も通らなければ良いと思っていた。「ごめん、外見るの忘れてた」とか抜かして、無かったことにしたかった。「一緒に寝ちゃったから」という言い訳も用意していた。しかし、せっかく君が人生をかけて頼んだお願いだから、その決意を無視できなかった。君と僕の、今日の朝という神聖な領域に、踏み込まれたくない。汚されたくない。2人だけの朝を作り、2人だけの時間感覚で進めるのだ。僕は、パーカーを羽織りコンビニまで歩き始めた。宅急便が来たときなど、玄関に立っているだけの靴らしい靴を必要としないときに、君は僕のスニーカーをつっかけながら履いていた。僕はこのスニーカーで歩くのは慣れているはずなのに、何度もつっかかりそうになった。

 1人おじいさんとすれ違った。おじいさんはもう朝を始めている。僕はおじいさんを「背景」として入り込むことを許そうと思う。まだ明かりのついている街灯や、凍り付いた音や、いつもの遊歩道たちと同じように。

 コンビニで水を買い、10分程度で帰ってきた。思っていた以上に早く帰ってきてしまった。僕は君にとっての朝を始めた張本人になれた。君はもう起きる時間だ。もう少しのろのろと歩けば良かった。スポーツ新聞でも立ち読みしておけば良かったと後悔した。まだ僕のパーカーが冷気を纏っているかも知れないので、君が寒くならないようにパーカーは脱いでから君の隣に腰を下ろした。柔らかな産毛が包み込む頬が好きだ。化粧をしているときに比べて主張の少ない眉が好きだ。滑らかに角度をつけた鼻が好きだ。こめかみの所に黒子があることを初めて知った。この美しい人は誰だろうと思ったら、君だということに気づいた。「真っ暗だと怖くて眠れない。あなたが隣にいても怖いんだ」という感覚を持っていてくれたから、豆電球の下で僕は君をこうして見ることができる。

 君の心臓の音は聞こえない。布団に吸収されて僕の耳には届かない。布団を剥がすよりも最良の選択で朝を報告しよう。ごそごそと布団に入り込み、君の胸の音を聞こうとした。安定したリズムだった。息を吸うと少し速くなる。君のこれからの行動を想像してみる。そういえば、目覚めたらコップ1杯水を飲むのをここ数ヶ月していたのを思い出した。「常温の方が良いんだよ」とさも自分で編み出したような表情で誇らしそうに言っていた。冷蔵庫に入れた水を机の上に置いておかなければ「冷たい!」と梅干しでも食べたのかというくらい顔をくしゃくしゃにする。その顔もかわいらしいけれど、今日にはそぐわないと思った。思い出した時「あっ」と声を出していた。冷蔵庫のドアを開けると「ん」という声が聞こえた。さっきまであれほど見つめていたのに肝心な君の寝起きを見ることが出来なくて、思わず笑ってしまった。続けて「ん?」と声がする。「おはよう」と言った僕の声は掠れていた。水を1口頂戴し、もう一度「おはよう」と言ってみた。「まだ夜じゃん」と君は言った。

 これから僕は君に、君の知らない「僕の朝」を教えてあげようと思う。暗い朝もある。明るい夜もある。もう「ん?」に対して「おはよう」と言うことはないだろう。寝起きに片目を瞑る仕草も見納めだ。君は布団に座ったままで、もう寝転がりはしなかった。君の意志の強さが僕には寂しかった。

 まだ外は明るくならない。君は朝だと信じないだろう。「こんなに早いとおじいちゃんみたいやな」と言ったら「じゃあ私はおばあちゃんになっちゃうじゃん」と優しく笑った。君が認めない、僕が認めたくない、徹底的に歓迎されない朝が来た。次は僕にとって暗い夜が来る。笑った顔が朝日のように眩しいという平凡な感覚は飲み込んで、「おはようって言ったのに、おはようって返ってきてないよ」と伝えた。少し考えた君は、俯いて「おはよう」と言った。