君は、蚊帳の中で寝たことがあるか? 蚊帳と言うのはいやなので、私はあえて「キャノピー」と呼ぶ。海外ではそう呼ぶらしいのだ。ふんわりとベールのように包まれて、大事に大事にされていることが目で見てわかる代物に、私は生まれてから17年、毎晩安眠を預けている。

 そんなものに似つかわしくない私だが、もっと不必要を感じさせる現象が起きている。数メートル離れたところで、男が寝ているのである。

 晴れて新しく夫婦になった私の母親、そしてその相手の橘さんに連れてこられた、不憫な男である。私と同い年と言っていたか。かれこれ家庭に男がいなかったものだから、異質な存在に見えてしまう。ポンっと穏やかな湖に投げ入れられた石のような。ピンと張っていた水面が、みるみると弛んでいく。私はその波紋が広がっていくことをなんとか阻止したくて必死だった。せめて、狭い範囲でとどめておきたい。湖なんてそんな澄んだものを私は持っていないけれど、この男に侵食させられた気でいる。友達が「あ〜。このアイドルの髪、黒曜石みたいできれいだよね……」などと言っていた。私には学がないので、黒曜石はオタク用語だと思っていたのだけれど、調べてみたら本当にある石の名前で、オタクは賢いなと思うと同時に、迂闊にもこの男の瞳も黒曜石のようだと思ってしまったのだった。

 新居に引っ越すまでまだ時間はあるのである程度は段ボールに詰めてはいるのだが、床で寝る訳にはいかないので、ベッドを畳むのは最後にしようという結論になったそうだ。「キャノピー」は幸い元々大きめのものを使っていたので、男が前の家で使っていたベッドを持ってきて、少し離して並べても問題なくすっぽりと収まった。部屋がなかったので仕方なく「キャノピー」を共有することになってしまった。

 私が「男」と呼んでいる限り、男は私の中では「男」でしかないのである。「兄」と口を動かしてみるが、あの違和感をなんと説明したらいいのだろうか。唇を「兄」と象ることさえ拒んでしまうくらい、私はあの男を「男」としてしか見ていなかったのだ。

 この男と初めて会ったときと同じ、夏と秋が喧嘩をし始める時期になった。夜は等しく冷たい。男は、タンクトップを着て掛け布団を被るという贅沢な寝方をしている。なめらかな二の腕と、整った後頭部をまざまざとこちらに向けている。残念ながら、首筋まで覗かせている。髪が短いのだからしかたない。いつも右耳を下にして寝ている。寝相がよく、朝まで同じ格好をしている。ベッドとベッドの間にある少しの「間」を、私は何度ありがたく思ったことか。私の腕の短さ、通り過ぎようとしている夏、男の近くまで歩こうとしない足、情欲しきれない身体。全てが諦めの方へ粋な計らいを見せていた。

 私は、毎晩毎晩懲りもせず、この「キャノピー」という頼りない閉鎖空間で、この男を熱い視線だけで撫でていた。

 だが、今日はとんでもない出来事が起こった。寝ていたはずの男が、急に飛び起きたのだ。「はあ……」と言って座り込んだかと思えば、短い前髪をクシャクシャしている。前髪、いや、頭を抱えているのか……? こんなときでさえ、私の目は、男の曲線的な脇を捉えてしまった。

「はあ……」

もうこの家族の破綻が見えていた。男のため息が、私に対する嫌悪を物語っている。

「あのさ」

男の唇に目を落とす。

「どうして先に俺のこと好きになっちゃったの?」

男はそう音を漏らした。

「ねえ……。夏弥……」

男はそう私の名をつぶやいた。

 蚊帳で囲われた小さな小さな檻が、水面を揺らしながら深い湖の底へと沈んでいった。