君は、蚊帳の中で寝たことがあるか? 蚊帳と言うのはいやなので、私はあえて「キャノピー」と呼ぶ。海外ではそう呼ぶらしいのだ。ふんわりとベールのように包まれて、大事に大事にされていることが目で見てわかる代物に、私は生まれてから17年、毎晩安眠を預けている。

 そんなものに似つかわしくない私だが、もっと不必要を感じさせる現象が起きている。数メートル離れたところで、男が寝ているのである。

 晴れて新しく夫婦になった私の母親、そしてその相手の橘さんに連れてこられた、不憫な男である。私と同い年と言っていたか。かれこれ家庭に男がいなかったものだから、異質な存在に見えてしまう。ポンっと穏やかな湖に投げ入れられた石のような。ピンと張っていた水面が、みるみると弛んでいく。私はその波紋が広がっていくことをなんとか阻止したくて必死だった。せめて、狭い範囲でとどめておきたい。湖なんてそんな澄んだものを私は持っていないけれど、この男に侵食させられた気でいる。友達が「あ〜。このアイドルの髪、黒曜石みたいできれいだよね……」などと言っていた。私には学がないので、黒曜石はオタク用語だと思っていたのだけれど、調べてみたら本当にある石の名前で、オタクは賢いなと思うと同時に、迂闊にもこの男の瞳も黒曜石のようだと思ってしまったのだった。

 新居に引っ越すまでまだ時間はあるのである程度は段ボールに詰めてはいるのだが、床で寝る訳にはいかないので、ベッドを畳むのは最後にしようという結論になったそうだ。「キャノピー」は幸い元々大きめのものを使っていたので、男が前の家で使っていたベッドを持ってきて、少し離して並べても問題なくすっぽりと収まった。部屋がなかったので仕方なく「キャノピー」を共有することになってしまった。

 私が「男」と呼んでいる限り、男は私の中では「男」でしかないのである。「兄」と口を動かしてみるが、あの違和感をなんと説明したらいいのだろうか。唇を「兄」と象ることさえ拒んでしまうくらい、私はあの男を「男」としてしか見ていなかったのだ。

 この男と初めて会ったときと同じ、夏と秋が喧嘩をし始める時期になった。夜は等しく冷たい。男は、タンクトップを着て掛け布団を被るという贅沢な寝方をしている。なめらかな二の腕と、整った後頭部をまざまざとこちらに向けている。残念ながら、首筋まで覗かせている。髪が短いのだからしかたない。いつも右耳を下にして寝ている。寝相がよく、朝まで同じ格好をしている。ベッドとベッドの間にある少しの「間」を、私は何度ありがたく思ったことか。私の腕の短さ、通り過ぎようとしている夏、男の近くまで歩こうとしない足、情欲しきれない身体。全てが諦めの方へ粋な計らいを見せていた。

 私は、毎晩毎晩懲りもせず、この「キャノピー」という頼りない閉鎖空間で、この男を熱い視線だけで撫でていた。

 だが、今日はとんでもない出来事が起こった。寝ていたはずの男が、急に飛び起きたのだ。「はあ……」と言って座り込んだかと思えば、短い前髪をクシャクシャしている。前髪、いや、頭を抱えているのか……? こんなときでさえ、私の目は、男の曲線的な脇を捉えてしまった。

「はあ……」

もうこの家族の破綻が見えていた。男のため息が、私に対する嫌悪を物語っている。

「あのさ」

男の唇に目を落とす。

「どうして先に俺のこと好きになっちゃったの?」

男はそう音を漏らした。

「ねえ……。夏弥……」

男はそう私の名をつぶやいた。

 蚊帳で囲われた小さな小さな檻が、水面を揺らしながら深い湖の底へと沈んでいった。

鉄道

 「まだコドモでいたいのね」

なんて言われた。

 わからない と思う。どうしたいのか、なんでそう思うのか、逆に何も思わないのか、思いたくないのか、わからないと思う。なんだかよくわからないけどふわふわした(けれど特に浮かれもしない形のないもの)をぶら下げて、何かを探そうとしているんだと思う。いや、探そうともしていないのかな。どうなんだろう

 「好きだ」

なんて言われた。前々から好かれていたことにはちょこっと気がついていた。……ような気がする。でも、どうなんだろう。私が「はい」と言っても「いいえ」と言っても、なんか違うような気がする。

 わからない、なんなんだろう、気がする、どうしたら、難しい、できない、なんだか。もやもや。

 「はい」と言ってしまえば「はい」だし「いいえ」と言ってしまえば「いいえ」なんだと思う。誰か「はい」の枠を、「いいえ」の枠を作ってくれたらいいのになあ。でも、それって誰かにとっての「はい」で誰かにとっての「いいえ」なんだろうなあ。私にとっての「はい」と私にとっての「いいえ」ってなんだろうな。

 いや、「はい」と言うのも「いいえ」と言うのも「違う」んじゃなくて、だけど「正解」でもなくて、どっちでもないような。どっちでもありたいような。かといって別の答えを見つけようとしても、「コドモ」の私にとってそんなことはハードルが高すぎるんだと思う。

 「わからない」

と言ってしまった。「わからない」に変わる言葉を知らなかった。だって「わからない」んだもん。わからないから、わからないんだもん。あのときの(今の)私にとって「わからない」がベストなんだもん。いいや、わからなくったって。いつかわかるときが来るよ……って思えないな。なんでだろう。

 この「わからない」を放っておいていいのかなあ。「わからない」を「わからない」にしたまんまでいいのかなあ。小平はどんな顔してたっけ。

 ほんとにわからないだけなのかなあ。もしかして、わかりたくないのかなあ。わかっちゃったら、わかってしまったら……答えを出さなきゃいけなくなっちゃうもん。

 なんで私に答えを委ねるようなことしたんだろう。なんで私が決めなきゃいけないんだろう。なんならいっそのこと、先に言っておけば……あれ、誰に何を言うんだろう。え……

 私が困りたくないから。私がこんなに悩まなくていいようにしたいから。私が。小平が。……小平が困っちゃうから。私のわからないを、わからないままにしていて悲しいのは小平……なのかもしれない。ごめんね。こんなどっちつかずな「コドモ」でごめんね。お子ちゃまでごめんね。ごめんね。

 

 お風呂上がりの鏡って、なんでこんなに見えないんだろう。

読書感想文

 
「なんの本読んでるの?」

と、ぼくはクラスの子に声をかけられました。ぼくは、

「『蜘蛛の糸』だよ」

と言いました。そしたら

「ふ~ん」

と言われました。

 ぼくは、本を読むことが大好きです。なぜなら、知らない国に行けるし、知らない人と話せるし、昔にも未来にも行けておもしろいからです。ぼくに声をかけてくれたクラスの子は

「ふ~ん」

と言ってから、別の友達のところへ行ってしまいました。ぼくは、なんで話しかけてきたんだろうと思いました。ぼくは、本を読むとき、机に本をべたりと寝かせて読みません。背表紙のかたい所をとんっと置いて、ななめにして読みます。だから、表紙は見えると思います。題名も分かると思います。ぼくは、どうして話しかけられたのか分かりませんでした。本が好きなのかな? と思ったりしたけれど、そうでもないらしいです。(別の友達と話しているところを盗み聞きしちゃいました。ごめんなさい)

 ぼくは、本を読んでいるときに、話しかけられるのがちょっと苦手です。お話がとちゅうでとぎれてしまうし、ネタバレをされたらいやだからです。でも、もっといやだなあと思うことは、本の題名を言ったとき

「ふ~ん」

で終わっちゃうことです。ぼくは、もっとちがう本を読めばいいのかなあと悩んでしまいました。『ハリーポッター』とか『魔女の宅急便』とか、みんなが読んでるやつじゃないといけないのかなと思いました。本当は、ぼくが好きな本を読みたいのだけれど、題名を言ったのに興味がないような顔をしているのを見るのが、とてもつらいのです。でもぼくが本を読むときは、立てて読んでいるから題名はわかります。ぼくは、とても不思議です。そして、そっぽを向いてしまうと本がかわいそうになって、ぼくも悲しいです。

 ぼくは、どうやったら友達が話しかけてこないかなあと考えました。とびっきりいい考えを思いつきました! ブックカバーをつけるのです。ぼくのお姉ちゃんがブックカバーいらなくなったからあげると、ぼくにくれました。ぼくは、本をきれいにしていられる自信があったから、青と白のしましまのブックカバーをつけたことがありませんでした。だけど、つけてみようと思いました。

 いつものように休み時間に本を読んでいました。ぼくだけがこの本のことを知っているので、なんだかうきうきしました。すると、

「何読んでるの?」

と、今度はちがう子が話しかけてきました。ぼくは、作戦に失敗してしまいました。それは、きっと本の題名が見えないからだと反省しました。見えないと、もっと気になっちゃうということを忘れていました。

「『蜘蛛の糸』だよ」

とぼくは少し緊張して言いました。

「へえ~」

と言われました。ぼくは

「ふ~ん」

の他にも、苦手な言葉があるんだなと知りました。そして、ブックカバーが意味ないなあと思いました。するとなんだかブックカバーをつけているのが恥ずかしくなって、かばんにしまいました。

 ぼくは、本が大好きです。でも、本を読んでいるのはきらいです。だって、みんなが変な目で見てくるような気がしてしまうからです。

 ぼくは、友達に

「本読んでるからかしこいよね」

とよく言われます。ぼくは、本を読んでいる人がみんなかしこいとは思わないし、ぼくも、百点をたくさん取ることはできないので、勉強がよくできるとは思いません。いつもクラスで百点ばかり取る友達は、本がきらいだと言っていました。ぼくは、難しい言葉は分からなくて家族に教えてもらうし、算数の文章題はもっと分からなくて頭がばく発しそうになります。なのに、本を読んでいるのって、どうしてかしこいって思われるのでしょう。漫画だったらいいのかなあ。自分でお金をかせぐようになったら、コンタクトにしたいです。

国語の時間がとくに好きじゃないです。目で読むのも速くないのに、口で言うのはもっと速くないです。ら行を言うのが得意じゃないから、いつも、先生に当たりませんようにと願っています。当たったとしても、長い文章じゃありませんように、と願っています。

 一週間前の国語の授業で、ぼくは長い文章を読むことになりました。ぼくは、あんまり上手にすらすらと読むことができませんでした。漢字の読み方が分からなかったからです。ぼくは、分からなかったから止まってしまいました。すると、周りの友達がいっせいにぼくの方を見てきました。いつも本を読んでるのにこんな漢字も読めないの? と思われてそうな気がして怖い気持ちになりました。ほかにも、「鉄橋」を「てつはし」を読んでしまって、みんながクスクスと笑いました。恥ずかしい気持ちもあったけれど、隣の席の子に

「いつも読んでる本って、全部ひらがなで書いてあるの?」

と言われたことが、一番恥ずかしかったです。そして、もっとぼくの読んでいる本がかわいそうな気がしてしまいました。ぼくは、家に帰ってから、自分の部屋で本に向かって

「ごめんね」

と言いました。本が泣いているような気がしました。ぼくは泣いていません。

 こないだ、お姉ちゃんが家に帰ってきました。ぼくのお姉ちゃんは、学校の先生をしているので、ひとり暮らしをしています。久しぶりにお姉ちゃんに会えて、とてもうれしかったです。

 お昼ご飯を食べた後、お姉ちゃんは、スマホを見ながら

「まただ」

と言いました。

「どうしたの?」

とぼくが聞くと、

「インスタにね、みんな読みもしないような本を読んでいるアピールをするのよ。ちょっとおしゃれなカフェでおしゃれにコーヒーを飲みながら、読んでいる風なのよ。駅前にできたあのお店、カフェと本屋さんが一緒になっているお店あるでしょ? テラスにいる人で本を読んでる人なんて見たことないのよ。みんな本とコーヒーの写真を撮って、あとはひたすら友達とおしゃべりよ? 私が読んであげたいわ。その本」

と言ったので、ぼくは、

「お姉ちゃん、悪口言ってるの?」

と聞きました。道徳の授業で悪口やカゲ口はダメなことだよとやったばかりだったので、不安になったからです。しかしお姉ちゃんはこう言いました。

「これはね、悪口じゃないの。“ひにく”よ」

とぼくの知らない言葉をお姉ちゃんは使いました。

「ひにくってなあに?」

と聞いてみたら、

「お姉ちゃんが今喋ったようなことを“ひにく”っていうの。辞書で調べてみたらいいわ」

と言われました。でもぼくは、辞書を授業で使うのを覚えていたから、学校に置いたままです。調べることが出来ないけれど、お姉ちゃんにもっと質問したら、よくないように思ったので

「分かった!」

と言いました。今でも“ひにく”の意味は分かりません。

 ぼくの、本を読んでいるときに声をかけられないようにするにはどうしたらいいだろう作戦は、まだ続きます。今度は、もっといい考えを思いつきました。

 それは、図書室で読むということです。

 短い休み時間に、図書室に行くことは難しいからがまんしました。だけど、昼休みには図書室に行ってみようと思いました。

 ぼくは、図書室が好きです。なぜなら大好きな本がいっぱい並んでいるからです。ぼくの好きな『蜘蛛の糸』を書いた作家さんのもたくさんあるし、ぼくの知らない作家さんもたくさんいます。ぼくは、この図書室の本を全部読みたくなる気持ちになりました。いつも、図書室に入ると、本のにおいがして落ち着きます。ここで眠ってしまいたくなるくらい大好きです。(本がおもしろいから寝ないけど)

 あまり図書室で本を読むことはなかったので、どの席に座ろうか迷いました。窓際の席は日が当たってぽかぽかしてそうだったので、窓際の席に決めました。ぼくは、夢中でどんどんどんどん読むことができました。いつもより十ページ以上多く読むことができました。

 ぼくは、ななめ前に座った女の子が気になりました。ぼくは、その子が何の本を読んでいるのか聞きたくてたまりませんでした。でも、ぼくは、読んでいるときに話しかけられるのがきらいだから、決してその子に話しかけませんでした。ぼくは、えらかったなあと自分で思います。女の子だから、もしかしたら魔法が使える話とか、占いの本かも知れないです。

 その子の読んでいる本がよく見えなかったので、目をじーっとしてみると、「ちゃん」という文字が見えました。そして、その子がページをめくるときに、ページ一枚ではなく、本ごと少し閉じてめくってくれたので、本の題名を見ることが出来ました! びっくりしました。それは魔法が使える話でも、占いの本でもなかったからです! 決めつけてしまってごめんねと心の中で謝りました。その子が読んでいたのは、『坊ちゃん』だったのです! 

以前お姉ちゃんが

「『蜘蛛の糸』が好きだったらね。これも好きかも知れないよ」

とおもしろそうに話してくれた本の中に『坊ちゃん』があったのです! ぼくはうれしくてうれしくてもっと話しかけたくなりました。ちらちら見ていたら気持ち悪く思うかもしれないので、五行読んだらちらっと見るというルールを決めました。何回も『蜘蛛の糸』は読んでいるので、お話はほとんど覚えています。だから、そういうルールにしました。

 読んでいるときに話しかけるのをぐっと、ぐっと、ぐ~っとがまんして、ぽかぽかする気持ちをぐっとおしこめました。すると、ちょうどぼくがちらっと見たときにその子が本を閉じました。ぼくは、今ならいいチャンスだと思いました。だけど、図書室で声を出すことは、もっと周りから見られてしまします。ぼくは、話しかける前にそのことに気が付けて良かったです。

 もしかしたら、その子もぼくの本のことも気になってたかも知れません。だって、ブックカバーをつけていなかったからです。その子も『蜘蛛の糸』が好きかも知れないし、ぼくも『坊ちゃん』を読みたいし、話したいし。

 本を読んでいる人に話しかけるときは、このくらいドキドキしてほしいなとぼくは思います。

 今度、その子がちょうど図書室から出ていったときに、ぼくは

「なにを読んでたの?」

と聞こうと思います。だけど、いきなり話しかけると怖いと思うから、もっと図書室に通って、同じ席に座って、同じ本を読んでいようと思います。

 

 という紛れもない「読書感想文」を書いたのだが、「これは読書感想文じゃない」と一蹴されたことを今でも根に持っている。それなら「好きな本を一冊選んで」とか、書いてくれていたら良かったのに。配られたプリントに書かれていたのは、

 「読書感想文を書きましょう」

だけだったのに。

 “皮肉”を“ひきにく”と勘違いして、姉に「ひき肉ってハンバーグの?」と聞いたことは書いていないような気がする。僕は、過去の自分に「えらいな」と思った。

ダム

 まだ十七だけれど。

 三月一日、午前二時あたりだったと思う。そろそろ眠ろうかとベッドの横の間接照明に手をかけた。布団の中も暖かかったけれど、電気に近づいた手は、布団の温かさとは別種のものだった。明日は曇りだという。もしかしたら雪でも降るかも知れないねと母が言っていた。

 東北にある俺の住む街は、まだまだ寒い。寒いのは苦手だ。まず手が冷たくなる。幼いころ、手が冷たいことに驚いて泣き出しそうになったこともある。母は「ほら、手を出してごらん」と言い、手を包み込んでくれた。俺の手よりもはるかに寒さを主張する手だったのに、「怖くないおまじないだよ」と念じるように擦り合わせた。母の手が前後するたびに、痛々しいあかぎれから、なまなましい血肉の口が開いたり閉じたりした。痛そうだなと思ったが、赤はどう頑張ってもぬくもりの赤に思えた。母は、しゃがんでいた膝を伸ばし、俺の右手をするりと持ち上げ、引っ張ることなく隣を並んで歩いた。冬はいつもこのようにして保育所から帰った。小学生になっても冬に外出するときは手を握ったり、母の上着のポケットに手を突っ込んだりした。「いつか好きな人とそんなことできたらいいね」と母が言っていたのはいつのことか忘れてしまった。もうずいぶん誰の皮膚にも触れていない。

 大きなサイレンが鳴った。脳髄に鋭い音が刺してきた。おそらく、街のスピーカーから聞こえてくるものだろう。さっき消したばかりの間接照明には、手を掛けなかった。窓を開けてみると、毛穴からサイレンの音を聞くことが出来た。なぜか、少し高揚した。

 「緊急ニュースです。何者かにより、犯行声明が出されました。今すぐ高台に避難してください」

 街は静まり返っているので、遠く離れた山にこだまする。話している人も焦っているのだろう。一つひとつの言葉に隙間がなく、ただ早口だった。跳ね返りを待つ前に次の言葉が捻じ込んでくる。スピーカーの言葉は、わんわんと言っているようで、ほとんど聞き取れなかったが、おそらくそんなことを言っていた。

 地震が来ただとか、大雨が降っただとかならまだわかる。しかし、ただの夜更けにどうして高台になんて行く必要があるのだ。犯行とか言っていたか。どこに誰に犯行声明を出したのだ。

 とりあえず寝ている母を叩き起こしテレビをつけた。どの局をつけても緊急ニュースだった。録画していた深夜アニメも、今や緊急ニュースが録画されているんだと思うと、突然腹立たしくなってきた。

 犯行声明とはこのようなものだという。

 ある男性がダムの施設をジャックした。貯水されているダムを一気に放流する。もしこのダムの水が全て流れ出すと、どの川も氾濫する。決壊する。しかし、猶予を与える。廃線となっている線路に、ゴンドラを用意した。一時間に数本、それを稼働させる。地上からは離れた山と山をつなぐ線路だ。それに乗れば安全な場所に避難できる。では幸運を祈る。

 犯人の顔は勿論だが公開されることはない。目的もさっぱり分からない。ただ、隣にいる母は震えている。幸い、俺たちの家は川からは少し距離がある。そして例のゴンドラにも近い。母はすぐに行こうと言った。なんとなく俺は学ランのポケットに手を突っ込んでいた。どうして学ランなのかというと、実は昨日の夜、着替えるのがとてつもなく面倒だったからだ。何かゲームのイベントがあって熱中していたわけでもないし、風呂に入ることに抵抗があるわけでもなかったけれど、着替えることに気力を回すのが面倒だった。母の帰りは遅いと聞いていたので、夕飯も賞味期限が明後日までのスティックパンを消費しただけだった。何もかも無駄だと感じているわけではない。ただ昨日はそういう日だったのだ。

 「防寒だけはしっかりした方が良いね」と言い、俺の首にマフラーを巻いた。母も同じくマフラーを巻いた。手が寒かった。

 小走りで高台に向かう。どうしても息はしないといけないので、自然と口や鼻から白い煙のようなものが出た。少し前を行く母のそれが、俺の顔にかかる。俺よりもかなり呼吸に乱れがあり、顔の全面にかかるような形だった。俺の吐くものも、誰かの顔にかかっているのかも知れない。誰かにかかる前に夜気に溶けてしまうほど、悠長な夜ではないのだけはわかった。

 「防寒だけはしっかりとした方が良いね」と言いつつ、中途半端だった防寒であったが、これでよかったと思った。高台に向かう人で密集し、とにかく暑かったのだ。マフラーを外したかったが、人の混みあいで上半身の自由は利かず、僅かに空白の空いた膝から下のみを動かしているようなものだった。母とははぐれることはなかった。手をつないでいたわけでも、母のポケットに手を突っ込んでいるわけでもなかったが、物体以外のものが俺たちを繋いでいたのかも知れない。

 一時間に数本動かされるゴンドラが動く様子が見えた。観覧車の一つのようなサイズで、形もよく似ていた。近くに廃園になった遊園地がある。そこから引っ張って来たのかも知れない。ゴゴゴガガと本当に助かるのか不安になる音と、本当に助かるのだという安心感を抱いた人々を乗せて動く。高台の線路を動く物を、命のつなぎ目だと羨むように人々は見上げていた。その奥にある星は、おそらく雲の裏側に潜んでいる。

 待ち時間が長く、夜明けを迎えてしまった。川がある方から、濁音が響いてくるような気がした。巻き込まれた人はいるのだろうか。犯人がレバーを一つ引いただけで、人々の不安を簡単に煽っているのだ。俺はこの煽りにうまく乗ることが出来るだろうか。 

 どこから情報が流れてきたのか。もう一つゴンドラが用意されたらしい。俺の後ろを歩いている人は、ほとんどそちらの方へ行ってしまった。さすがに、同じところに何時間も待たされていたら、気が狂ってしまう。同じ服の色、同じ頭の形、とことん同じ景色を見るよりも、気分を変えたいという気持ちの働きも含んでいるのだろう。俺としては、後ろにもたせ掛けるものがなくなって、少々気後れした。

 ゴンドラが間近に見えてきた。もう何回も行き帰りしたゴンドラを信用するのは難しい問題だった。明らかに疲弊しているだろう。こいつがどこへ行くのかも知らない。知りもせずに並んでいたのか。普通のアトラクションであれば、乗った場所と同じ場所に帰ってくるものがほとんどだ(俺が乗ったことあるものに限るが)。降ろされた先が違う所だと感じることはある。アトラクションに物語やミッションが施されていて、乗物から降りて地に足をつけたときには、別人になっているような感覚になるのだ。俺はヒーローか何かか? ヒロインを救った王子か? と錯覚する。その時は、目に入るものが輝いて見えるし、自分の背丈が十センチほど伸びたような気がした。たとえ同じ場所に戻っていたとしても。今目の前にあるゴンドラは、どこへ行くのか。昔見た絵本にあったように、線路の途中で人食いの何かが現れるかもしれない。現に、誰からも「助かった」という報告がないではないか。何があったのか知らないが、邪悪な観念を持った犯人という一応「人」を、そこまで信じていいのだろうか。

 いよいよ俺も乗れそうな番だ。文字通り「おしくらまんじゅう」状態のゴンドラの中に母は足を入れた。満員だった。俺は、一目でこれに乗ることはできないと察した。そして必然的にゴンドラの扉を閉める係になった。母は扉に背を向ける形で乗ったので「乗って」という言葉は俺に向けれられなかった。どこで誰が確認したのかは分からない。もしかしたら犯人が遠隔で操作をしているのかも知れない。ゴンドラは勝手に動き出した。俺の名前を知っているような声で、知らない声量で聞いた。

 単純に「暇だなあ」と思った。ゴンドラが帰ってくるまで、いくらか時間がかかる。俺の体内時計は信用ならないので、「十分くらい」とか大雑把なことは言えない。とにかく暇だった。そこら辺に生えている雑草を、常識のある範囲で蹴った。頭がかゆく感じたので手を頭の方へ持ってきたとき、今の今まで一度も左手をポケットから出していなかったことに気が付いた。確か扉を閉めたのは右手だったはずだ。三回くらい爪を立てて頭を掻いた後、刈り上げた後頭部を下から上に撫でた。頭を掻き、刈り上げ部分を撫でる重労働を成し遂げた左手を、ポケットにまた突っ込んだ。

 背後から聞き覚えのある音が帰ってきた。ゴンドラは無人だった。人食いの怪物が現れたかは、ゴンドラを見ても分からなかった。人間の血が飛び散らないように、上手に丸のみしたのかも知れない。

 俺は、ゴンドラに乗り込んだ。左奥の隅に腰を下ろし、小さな体育座りをして、できるだけ顔を膝の間に埋めた。肉のない膝が額に当たってほんのりとごつごつして痛かった。

 体内時計は信用ならないと言ったが、さすがに動き出すまでに時間がかかり過ぎだ。なぜか俺の他には誰も乗っていない。実際に見たわけでなく、気配がそう言っていた。もう一つのゴンドラに、思っていた以上に人が流れていったみたいだ。独り。俺は独りなのか。

 もしこのゴンドラを犯人が動かしていたのだとしたら、むずがゆくて吐き気がするだろう。無人と等しいこのゴンドラを動かすのは、非生産的過ぎる。このまま一人でいたらどうなるだろう。犯人はそれでも動かすのだろうか。俺だけを乗せたゴンドラに価値を見出して動かすのだろうか。しかし、このような残酷な犯行をしておいて、他人を価値のあるものに感じるのだろうか。自分自身すらも価値があると感じているのかどうか。俺を無価値だと認識していた場合、なんて無駄な時間が流れているのだと思うだろう。この状況を楽しむのも面白い。人が入ってこない間、苛立つ犯人の様子を想像すると、くぐもった笑みが零れた。

 その想像は長く続かず、俺は次第に飽きた。だから、学校に行ってみようと思った。無人になったときの犯人の表情を想像することに、何の面白みも感じなかった。俺自身の思い出を作りに行こうなんてものでもない。最後に知っている場所に行っておこうなんてものでもない。ふと学校に行ってみようと思った。ただそれだけだ。

 電気もついておらず、人気もない学校は、廃校した別の高校かと思った。もし別の高校だったら、制服が学ランじゃなかったらどうしよう、不法侵入扱いされてしまうとも思ったけれど、俺の通っている高校だったので少しほっとした。

 少し格好つけて窓ガラスを割って入ってみるのもいいかも知れない。どうせなら、昇降口ではなく、ただの廊下の窓を割ってやろうと思った。まるでそれがルーティンであるかのように、俺は右を向き、約八十センチの歩幅で三歩だけ歩いた。そしてもう一度左を向き、向かい合った窓ガラスに向かって石を投げ込んだ。「キャー!」という悲鳴が聞こえた。

 人がいる。おそらくこの学校の生徒だろう。俺と同じ高校に通う、同じくらいの背丈の同じような学力の人たちの誰か。今の悲鳴は女子っぽかったので、同じくらいの背丈ではないかも知れないけれど。

 とにかく、俺はできるだけ慎重に、まるで初めてその階段を上るかのようにして教室に入った。そこには、クラスメイトが数人いた。男女合わせて七人程度といったところだろうか。皆、同じ靴を履いていた。彼らは律義に靴を履き替えたらしい。

 「おう。お前もここに来たのか」

ここもなにも、今日は水曜日だ。学校側から休校の連絡はない。つまり、ここに来る義務があるのだ。ふらっと立ち寄ったような言いかたをされたのが少々気に障った。

「もしかして、窓ガラス割った?」

「うん。割った」

「びっくりしたよ。どうするのよ、そこから水が流れ込んできたら」

「私たち死ぬじゃん」

「こんな寒いのに冷水浴びて死ぬとかないわ」

「そうだ。俺たちは最後の思い出をつくりに来たってところなんだけど、お前はなんで来たの?」

「分からない」

「分からない?」

「うん。分からない」

「ははあ~。言えない理由でもあんの?」

「いや、別にないけど」

「それ、隠してるつもり? お前って確かこのクラスの高橋のこと好きだっただろ」

「は?」

「高橋の机触る絶好のチャンスだもんな」

「何言ってんだよ」

 俺は、冷静さを装ってあとに続けた。

「お前らは? なんでここに来たの?」

「だから、思い出づくりだって」

「思い出って……」

「そう。だって俺ら死ぬの確定じゃん? ゴンドラがどうとか言われたけどさ、そんなの乗った先に殺されるかも知れないんだぜ? 乗れっこねえよ。第一、俺ら修学旅行すら行けねえってどういうことよ。最後の文化祭も最後の合唱祭も最後の授業も、何もかも最後と感じることなく終わっちまったじゃん」

 クラスメイトはそう言うと、息を大きく吐いて窓ガラスを曇らせた。先ほど自分でつけた指紋を拭い取ろうとしていると見た。

「俺、学校、好きだったからさ……。家帰ってもギクシャクしてるし、本当に学校が俺の居場所だったんだよな」

 何言ってんだ。こいつが話す言葉、何もかもが過去形じゃないか。

「だから、ここは、天国なのよ。俺にとって」

「天国?」

「そう。天国。いいだろ? 天国で天国につれていかれるって。最高だと思わない?」

 天国。天国。天国……。天国に行けるかどうかも分からないような危うさの中で、生きてきた俺たちのはずだ。天国に行けるなんて確証はどこにあるんだ。なんだ。その死ぬってわかったような言い草は。自覚している? 死を覚悟しているのか? そんな覚悟で死ぬってできるものなのか? 知らないだろう。おまえは何も知らないだろう。俺だって知らないよ。誰も知らないんだ。知らないことを知ろうとも思えないんだ。なんで笑っていられるんだ。俺は死ぬのが怖いのか? いや、それは断じて違う。怖くはない。ただ死ぬとも思えない。超人だからとか、死ぬことのない体質だからとかそんな勘違いをしているのではない。なぜだ。どうして俺はこんなにも「怒って」いるんだ。何を確かめるために憤っているんだ。何を得るために、何を感じるために、何を説得するためにこの感情が沸いているのだ。分からない。

「うるせえな……」

「え?」

「うるせえんだよ! クソガキが!」

 どう動いていたかは分からない。マフラーを外してとにかく振り回して、目に入ってくる物を投げたり蹴ったりした。それは机やいすや教卓やチョークや、ありとあらゆる学校の所有物だったはずだ。クラスメイトには何も加えない。彼等は学校の所有物なんかじゃない。

 人の感情は天気みたいにコロコロ変わるという。しかし、天気ですら予想できるのだ。明日の天気が分かる。一週間後の天気も大体予想がつく。現に、今日は昨日の「曇り」予想がどんぴしゃりと当たったではないか。俺は、この感情が予測できるとは思えない。何に出くわして、何に動かされていくのか分からない。そんなもの天気と捉えられようがないではないか。俺は、今日の俺が、こんなに荒れ狂っているとは思ってもみなかった。

「おい……。落ち着けって」

「うるせえよ! わかんねえよ! 何もかも! 何にもわかんねえんだよ!」

 俺の叫び声の合間を縫って、女子の啜り泣きが聞こえてきた。この狂った言動が、一時的なものだということ、他人に迷惑をかけるということ、爽快感が待っていないことには気づいていた。それでも、俺の肉体と本能が得体のしれない何かに突き動かされて制御が利かない。死ぬ前に、一回反抗でもしてみたかったのだろうか。もしそうなら、周りを巻き込んだ罪悪感、死を覚悟した人間を嘲笑った愚かさがやってくる。それを否定したくて、何もかもを否定したくて、本能に従い続けた。無意味だと、無価値だと悟っていたとしても。

 肩で大きく息をしている、お前はもう疲れているはずだ、と第三の俺が言った。そこで、「……ごめん」とだけ言って教室を出た。また、俺の名前を知っているような声が、知らない声量で呼んでいた。

 歩みを進めるのは苦痛だった。着衣水泳の後のような重たさを、ずっと纏っているような感覚だった。俺は、小学校の頃に一度だけ高熱を出して早退したことがあった。「一人で帰れます」と言った。母は仕事で迎えに来ることが出来ないと察したから、一人で帰る選択をした。誰の手も借りないことは心地よくもあったが、何にもこの怠さを預けることが出来ないことは不快だった。その不快さを今まで忘れていたことが不思議だった。

 学校とさほど距離のないところに線路がある。これは廃線になったものであり、ゴンドラの通り道だ。線路の上をなぞるように歩く。俺が乗ったときには誰一人として乗ってこなかったのに、今は満杯になっている。ひとりでに扉が閉まった。俺が手動で扉を閉めたときに感じた抵抗感は、遠隔で閉められる扉が、俺に抗っていたのかも知れない。

 線路に立っている俺が言う。「ああ、俺は助からない」

朝が来る前に

 くぐもった心臓の音がする。高校時代の音楽の先生は、「鼓動の速さは自分で調節できる」と言った。実際に、均等に時を刻んでいるメトロノームのコツ、コツ、という音に鼓動を合わそう、合わそうとすると、ぴったし同じになった。あの時の衝撃は忘れられない。しかし、その時心臓の音質まで調節できるとは聞いていなかったので、やはり僕は不安なんだなと思った。

 落ち着いたブラウンの厚手のカーテンは開けたままにしていた。薄いレースのカーテンだけが揺れている。窒息しないように少しだけ窓を開けているのだ。今日が終わって明日が来る。でも、僕はまだ眠っていないから今日が終わっていない。僕の基準で朝を定義付けるなら、眠りから覚めた時だ。眠りはおおむね6時間ほどの間、瞼を閉じて無防備になること。一言も発さずに(寝言は自分では分からない)たまに姿勢を変え、意識の範疇の外で記憶にない時間を過ごす。夢を見ることもあるけれど、それは自分という実態が体験したことではなく、どこか浮遊した自分が体験したことに過ぎない。そんな無意味とも捉えられることを毎日繰り返すことが睡眠だ。では昼寝はどうかと言われるが、あれはそもそもの時間が足りない。睡眠の続きを補っているだけである。そして、何かしらの意味を必ず持つ。腹が膨れてどこかの神経が緩んで誘われるように眠る。活動しなければならないと思っているのに反して、身体は正直だ。なんでもない日曜日に何もすることがなくて昼寝をすることもある。あれは、時間を潰しているだけだ。つまり、睡眠と昼寝を僕は別のカテゴリーに入れていて、昼に寝たからと言って今日が終わる訳ではないのだ。簡単に言えば夜に眠るというだけなのだけれど。

 今日は途轍もなく長い日になるという覚悟はできていた。無理やり寝ないでおこうと努力しているのではない。オールをするような体力は今の僕には備わっていない。「朝が来る前に起こしてね」と言われたから、君が定義付ける「朝」を待つという使命があるのだ。僕と君との間で「朝」にずれがあることをもう君は何年も前から知っていたから、「ちゃんとお日様が昇ったときが朝なの。大体5時くらいだよ。でもそれより前に起こしてね。誰かが外を歩き出した時ね。いっぱい外に人がいたらもう朝が過ぎちゃってるの。難しいなぁ……朝が来てからじゃ遅いんだから。絶対だよ」と念押しされた。「分かった」と一言だけで返事をした。

 物音を立てずに立つという術を得た僕は、窓をぼんやりと見ていた。朝日がどこから昇ってくるのか、勝手にクイズでもしようと考えた。自分の部屋なのだから窓は西側に付いていることぐらいは把握しているが、方位磁針が、磁石を近づけると狂うように、僕の頭もぶんぶんと振ったら狂うかも知れない。闇の塊は、まだ低いところで留まっている。先程「朝日」と呼んだ太陽は、しばらくすると「夕日」に姿を変える。全くの同一人物なのに、1日に何役もしなければならないので、切り替えの早い名役者だなと思った。

 玄関には、君にとっての必需品が詰まった鞄がある。衣類、財布、通帳、印鑑、筆記用具、資格を取るために勉強したノート、僕がサン・ジョルディの日にあげた本、新調したスーツ……。昨日の荷造りをしている君の横で、「俺もその中に入れてよ」と半分冗談で半分本気で行ったのだけど、「もう!そういう芸人さんじゃないんだから。こんなに小さな鞄なんかに入るわけないでしょ?」と笑いながら君は言った。君は鞄の口を開けようともしなかったから、多分そういうことなんだと分かった。

 僕は、君の間違いに1つ気がついていた。「朝が来る前に起こしてね」という言葉だ。今は冬。つまり、日が昇るのは遅い。君は夜更かしをするのが苦手だったから、想像上での朝を言ったのかも知れない。それか、深夜2時に「なんかむしゃくしゃするからゲームしよ」と珍しく僕を誘い、2人でゲームを隣人の迷惑にならない程度の声量でプレイし、「うわぁ。外がオレンジ色になってるね」と言った夏のことを覚えていたのだろうか。もしそうなら、君が家を出る時間は夏を基準としている。真冬の朝というのは、君が「まだ夜じゃん」と言うであろう時間なのだ。決まった時間に散歩をする人や、決まった時間に通勤する人は、暗闇の中でも朝となる。朝日が昇る以上に、人が行動し始めるのは朝を定義付けるのに必要な要素だ。

 今回君が旅立ちを迎えるにあたって、特別なお祝いもしてあげられなかったけれど、特別をあまり欲しがらない君だったから僕は助かった。でも、10月31日は必ずカボチャを使った晩御飯だったことを知っていた。特別を警戒し、君なりの特別を僕の日常に溶かして有耶無耶にしてしまったのかも知れない。

 もうすぐ誰かが外を歩き始める。見知らぬ他人が君の朝を告げるのは許せなかった。僕が君に託された朝だから、僕が君の朝を決めるのだ。本当は、誰も通らなければ良いと思っていた。「ごめん、外見るの忘れてた」とか抜かして、無かったことにしたかった。「一緒に寝ちゃったから」という言い訳も用意していた。しかし、せっかく君が人生をかけて頼んだお願いだから、その決意を無視できなかった。君と僕の、今日の朝という神聖な領域に、踏み込まれたくない。汚されたくない。2人だけの朝を作り、2人だけの時間感覚で進めるのだ。僕は、パーカーを羽織りコンビニまで歩き始めた。宅急便が来たときなど、玄関に立っているだけの靴らしい靴を必要としないときに、君は僕のスニーカーをつっかけながら履いていた。僕はこのスニーカーで歩くのは慣れているはずなのに、何度もつっかかりそうになった。

 1人おじいさんとすれ違った。おじいさんはもう朝を始めている。僕はおじいさんを「背景」として入り込むことを許そうと思う。まだ明かりのついている街灯や、凍り付いた音や、いつもの遊歩道たちと同じように。

 コンビニで水を買い、10分程度で帰ってきた。思っていた以上に早く帰ってきてしまった。僕は君にとっての朝を始めた張本人になれた。君はもう起きる時間だ。もう少しのろのろと歩けば良かった。スポーツ新聞でも立ち読みしておけば良かったと後悔した。まだ僕のパーカーが冷気を纏っているかも知れないので、君が寒くならないようにパーカーは脱いでから君の隣に腰を下ろした。柔らかな産毛が包み込む頬が好きだ。化粧をしているときに比べて主張の少ない眉が好きだ。滑らかに角度をつけた鼻が好きだ。こめかみの所に黒子があることを初めて知った。この美しい人は誰だろうと思ったら、君だということに気づいた。「真っ暗だと怖くて眠れない。あなたが隣にいても怖いんだ」という感覚を持っていてくれたから、豆電球の下で僕は君をこうして見ることができる。

 君の心臓の音は聞こえない。布団に吸収されて僕の耳には届かない。布団を剥がすよりも最良の選択で朝を報告しよう。ごそごそと布団に入り込み、君の胸の音を聞こうとした。安定したリズムだった。息を吸うと少し速くなる。君のこれからの行動を想像してみる。そういえば、目覚めたらコップ1杯水を飲むのをここ数ヶ月していたのを思い出した。「常温の方が良いんだよ」とさも自分で編み出したような表情で誇らしそうに言っていた。冷蔵庫に入れた水を机の上に置いておかなければ「冷たい!」と梅干しでも食べたのかというくらい顔をくしゃくしゃにする。その顔もかわいらしいけれど、今日にはそぐわないと思った。思い出した時「あっ」と声を出していた。冷蔵庫のドアを開けると「ん」という声が聞こえた。さっきまであれほど見つめていたのに肝心な君の寝起きを見ることが出来なくて、思わず笑ってしまった。続けて「ん?」と声がする。「おはよう」と言った僕の声は掠れていた。水を1口頂戴し、もう一度「おはよう」と言ってみた。「まだ夜じゃん」と君は言った。

 これから僕は君に、君の知らない「僕の朝」を教えてあげようと思う。暗い朝もある。明るい夜もある。もう「ん?」に対して「おはよう」と言うことはないだろう。寝起きに片目を瞑る仕草も見納めだ。君は布団に座ったままで、もう寝転がりはしなかった。君の意志の強さが僕には寂しかった。

 まだ外は明るくならない。君は朝だと信じないだろう。「こんなに早いとおじいちゃんみたいやな」と言ったら「じゃあ私はおばあちゃんになっちゃうじゃん」と優しく笑った。君が認めない、僕が認めたくない、徹底的に歓迎されない朝が来た。次は僕にとって暗い夜が来る。笑った顔が朝日のように眩しいという平凡な感覚は飲み込んで、「おはようって言ったのに、おはようって返ってきてないよ」と伝えた。少し考えた君は、俯いて「おはよう」と言った。

 

サーカス

 私はサーカスに行った。友人がどうしても「サーカスに行きたい」と言ったのだ。待ち合わせ場所に着いてみると、サーカス会場というよりは遊園地に近いような雰囲気だった。もしかしたら、遊園地の中に組み込まれたプログラムとしてサーカスがあり、友人はそれを観たかったのかも知れない。

 地面は舗装されていない黄土色の土が剥き出しになっている。人が歩くたびに土埃が立つ。地面を見ながら歩くからよく分かる。今にも馬車が走ってきて私に突進してきそうな雰囲気だ。多分私の引きずった歩き方では土埃は後ろに立たないだらう。とぼとぼ……私が足を出そうとする位置だけがぼやける。建物は全て濃い赤の壁。金色の文字。金色の柱。窓の縁も金色。中を覗くとお土産屋さんがずらりと並んでいる。黄色いブラウスに小さな花が散らしてあるスカート。ふんわりと腰から下げるエプロンをしたふくよかな店員さん。スカートとエプロンは恐らく指定のもの。売り込もうとしているのか、ただのコミュニケーションの一環なのか、やたらと私に向かって笑顔で手を振ってくる。笑顔の威圧。そのふくよかな頬に両側から挟み込まれていく。どんどん頬は膨らんでいき、私は窒息する。そんな妄想をするのも容易。とにかく「陽気」がここまで似合うのはここだけかも知れないと思わせる街のようにも見えた。

 歩く。歩く。とぼとぼ歩く。どうしてこんなに私の周りだけ重力が倍以上にかかっているのだろうか。

 友人はこの園の奥の奥にいた。彼女もまた周りと同じように笑顔を膨らませながら頭の上で手を振っている。どうやら大人の男性と一緒だ。何かポリバケツを二つ持っているぞ。何かしら。彼女の笑顔が恥として回収される前に、私は小走りで彼女の方へ向かった。ようやく土埃が後ろへ舞った。

「やっと来た!遅いよ!」

「ごめん。ここに来るの初めてやったから、見渡しながら来ちゃった」

「それもそのはず。ここは少し前のヨーロッパをイメージして建てられた施設だからね」

私の聞いたことのない声。男性の声。音も胸板も分厚い。ポリバケツが二つ……

「この人は、私の知り合い!サーカスの団員さんなんだ。久しぶりに日本に帰ってきたから、ぜひあなたを連れてきたくって」

 友人は私を見ている。何の説明もなしにただ「サーカスにいこう!」とだけ言われて来たのだ。ヒョコヒョコやって来た私にも責任があるが、ここで何か一言を求められると困る。たじろいでしまうではないか。私はあなたほど興奮していないという態度を出すと、この全ての空間を台無しにしてしまう。私の主張はその勇気に勝てるわけでもない。ただ「そうなんや」と初めて笑顔を見せた。

 光沢もない、くすんだ青をベタ塗りしたようなポリバケツが二つ。メーカーのシールも貼られていない、使い込んだようなポリバケツが二つ。息をしていないポリバケツが二つ。無機質なポリバケツが二つ。

 サーカスの団員さんなのだから、何か道具でも入っているのだろう。私は気にせず会話に戻ろうとしたのだけれど、視線は意識よりも一つテンポが遅かった。ポリバケツを見ていたことにきづかれてしまったのだ。

「気になるだろう?このバケツ見てみなよ」

 はいかいいえの選択肢もないままポリバケツの中身を見せられた。

ーーーーーーウサギ。

 ぎっしりと敷き詰められたウサギ。これはミニウサギの赤ちゃんかしら。灰色のウサギ。淡い茶色のウサギ。ウサギ。ウサギが確かにそこにいた。ウサギは皆仰向けになっている。前足を行儀良く揃えている。バケツの中心へ頭が向くように、後ろ足がバケツの内側に沿うようにみっしりと円状に並んでいる。生まれたての綿毛のような、ふわふわとした毛を身に纏っている。頬のような口元のような部分が特に豊かだ。短い耳はピンと立っている。薄い皮膚からは血管が見えた。耳にも血が行き渡るようになっているんだなぁ。でも何だろう。この妙な違和感は。

「この子たちはね、サーカスに出る予定なんだ。どうだい?かわいいだろう?」

 私は、この男性が話している間に分かってしまった。罪だ。あぁ、この奇妙さはこの人の凶器だ。

 ウサギの下には、氷がガラゴロ重鎮しているのだ。つまり、ウサギはその上に寝転ばされているような形なのだ。ほとんどのウサギの鼻が動いていない……

死んでいる

 直感だった。ウサギは、活動している間は鼻をひくひく動かすが、眠る時は鼻を動かさない。だから、このウサギたちは眠っていると捉えることも出来る。いや、それでも死んでいるようにしか見えない。私の五感をフルに働かせたのではない。五感を超越したところで感じたのだ。私の脳内に「ウサギの死」の文字がちらつく。それはやがて濃くはっきりと硬い文字になっていき、次第に脳内は埋め尽くされた。このウサギたちは死んでいるのだ……

こいつは、ウサギを殺したんだ。

この固い氷の上で長時間強制的に過ごしたウサギたちは、氷に体温を吸収され、誰かのぬくもりも知らずに死んでいったのだ。氷が溶けてないから、何度も入れ替えたのか、あるいは、直前まで氷水にバケツごと浸していたのかも知れない。一つの命は、命として生まれて来た以上、命だ。命じられるための命ではない。ただ少し身体つきが良いだけで威張れるものではないのだ。こいつの胸板に永遠に再生される傷をつけてやりたい。死ぬのではないのだから、これぐらいのことではこのウサギたちに顔向けできないだろう。

 でも、もしかしたら実はもうウサギは死んでいて、骸となったウサギを腐らせないように氷に乗せているのかも知れない。この男の善意なのか悪意なのか。

 何もわからないまま立ち話は続いた。大量のウサギが入っているバケツを持ちながら話せる屈強な肉体……やはり殺したのか?この可愛らしい小さな命を。

「よう!今日もいい天気だなぁ!頭が痛いぜ!」とまた別の男の声が聞こえた。そうだな。その皮膚が表につるんと出ている頭なら、この日光は堪えるな。

「そういえば、昨日ウサギ、いただいたんだが…俺の調理法が悪かったのか、少し内臓が良くなかったよ」

「そうか……残念だなあ」

 そうなのか、食用のウサギだったのか。この地方ではウサギを食べる習慣があるのか。

「あ!」

 友人の声が耳に障る。

「この子、まだ生きてるんじゃない?」

 この言葉で、私の予想は当たっていたと分かった。やはりウサギたちは死んでいたのだ。彼女が指さした先にいたウサギは、僅かながら鼻を動かしていた。ゆっくりと動くその鼻先を、つんと指先で弾いてやりたい衝動に駆られる可愛さだった。生きている。まだ心臓が動いている。辛うじて血液を巡らせている。氷で冷却された青い血を。

「私、この子、欲しい!」

友人はバケツを持つ男にこう言った。

「だって、やっぱりかわいそうに思っちゃうなあ。まだ死んでないんでしょ?いいじゃん!ね?知り合いに免じて!お願い!」

 そんな手を顔の前に合わせて許しを請う暇があったら、早くそのウサギの子を抱きしめろ。このか弱い命の糸を延ばせ。太くしろ。早く。早く。

「……分かった。今回だけな?育て方はまた俺に聞いてくれや」

「ありがとう!」

友人はその茶色がかったウサギを掬い取って胸の前で抱いた。彼女の体温がウサギの体温へ。ウサギの冷たさは彼女の体温と綯交ぜになって一つになった。その瞬間、彼女の顔が母親のような顔になったのを私は見逃さなかった。どくり。どくり。彼女の心臓の音と、ウサギの心臓の音が重なる。そして一定のテンポを保つ。私は、その一連の間手を湿らせながら真横に吊り下げているだけだった。

「この子の名前、何にしようかな」

「良かったな。いい名前つけてあげ」

 友人は初めてペットを飼うことになったようで、嬉しさが零れ落ちていた。ウサギも徐々に回復しているように見えた。

 会話の間にも、私はバケツの中にいるウサギを盗み見る。すると、一匹のウサギの前足が動いた。初めは右前足だけだったが、続けて左前足も、不器用に不揃いに動かしている。ジタバタしている。動きは次第に過敏になっていく。しかし、両端は骸に挟まれていて身動きは取れない。

 私はどうする?このウサギに手を差し出すのか?この、命を急に取り戻したようなウサギを私はどうするのか?啼け。啼いて自分の存在をアピールするのだ。なぜ?なぜウサギに啼くという技術が備わっていないのだ。それなら、私がこの子の無声に答えればいいのだ。私の手をもって救えばいい。よくここまで耐えたねと褒めてやればいい。何をしている。手を動かせ。あのジタバタを押さえつけるために手を動かすのではない。あの場から解き放つために動かすのだ。動け。私の手。今この意思と連動させて動くんだ。

 動かない。怖い。骸と骸の間にいる、骸になることを拒んだウサギを抱き上げるのが怖い。骸に手が触れるのが怖い。もしかしたら抱き上げた拍子に暴れるかも知れない。怖い。

 私は、また何もできないのか。

 私はウサギを飼っていたことがある。姉が「家族として迎え入れたい」と言ったのだから、私はあまり世話をしなかった。そのウサギは美しい灰色のウサギだった。親バカという言葉もあるが、この子はとても美人だった。それでも、天寿を全うしたウサギに対して「ごめんね。ごめんね。私何もお世話してなくてごめんね……」と繰り返していた。思わず過呼吸気味になり、そこで言葉を終わらせてしまった。「ありがとう」の言葉も言えなかったのだ。私に続いて発した姉の言葉は「ありがとう。だいすきだよ」。これが正解だ。

 私は、また何もできないのか。

 その出来事がフラッシュバックしている間に、「時間だ」と言って男がバケツを持って遠ざかっていく。

 私は、また何もできないのか。

 友人はにこやかに男性を見送る。私に「サーカス楽しみだね!」と声をかけてくる。鬱陶しい。

 私は、また何もできないのか。

 あの子が泣いている。見ていられないほど哀愁を持って泣いている。こちらを見ている。あの子は泣いている。

 私は、また何もできない。

 私はムキになってとにかく走り出した。ウサギとは逆方向だ。何も思い浮かばない。浮かぶとすれば、あのもがいているウサギだけだ。張り付いている。そこに向かって走ればいいのに。どうして私は別の方向へ走っているのか。

 通り過ぎる店員のスカートをひらりと捲らせながら走る。勢いは止まらない。土埃が風に流される。

 どういうわけか、私は園内のお土産屋さんの一軒に入っていた。まるでそこが家であったかのように、すんなりと足が屋根裏部屋へ動く。あの時手は動かなかったのに、今足は容易く動いている。足の、意思に対する率直さを恨んだ。

 しばらく膝に顔を埋めていた。出来るだけ小さく小さくなって、この圧縮で自分の身が破裂してしまえばよかった。涙は出なかった。絶望……後悔……知っているネガティブな言葉が通り過ぎていく。そのどれにも当てはまらない憎い感情が渦を立てていた。

 幸い、屋根裏部屋は暗かったが、私の気持ちを落ち着かせようとはしなかった。ウサギの足が瞬きのたびに映る。そうなるのが嫌だったので、瞬きをしなかった。初めて涙を流した。乾燥で涙したのだ。

「おーーーい!」

 外から声が聞こえる。小さな窓から顔を出すのは億劫だったが、友人の声だと分かった。

「何があったか分からないけど、私はあなたが素敵な人だって分かってるよ!」

 声が増えていく。知らない声。

「お嬢ちゃん、出ておいで」

「ここには楽しいことがあるから、はしゃいで忘れよう!」

「美味しいお菓子もあるよ」

「ねえ、みんな何叫んでいるの?」

「とりあえず、何か前向きになることを言うのよ」

 部屋の中の静寂で、外の声は輪郭がはっきりとする。きっと、友人が叫んでいるのを見て、皆が力を結集させて私をここから引きずり出そうとしているのだ。私は誰からの共感も求めていない。励ましだって甘くてベトベトする。中には訳が分からず叫んでいる人もいる。そういう人は大体嘲笑を含んだ叫び方をする。子どもが不思議そうに見ているだろう。今すぐに記憶を削除してあげよう。この恥を露わにして。

 私は、また何もできない。でも、これなら……

 窓を開け、顔を出す。これが無様な人間の顔だ。どうだ。醜くて仕方がないだろう。