ダム

 まだ十七だけれど。

 三月一日、午前二時あたりだったと思う。そろそろ眠ろうかとベッドの横の間接照明に手をかけた。布団の中も暖かかったけれど、電気に近づいた手は、布団の温かさとは別種のものだった。明日は曇りだという。もしかしたら雪でも降るかも知れないねと母が言っていた。

 東北にある俺の住む街は、まだまだ寒い。寒いのは苦手だ。まず手が冷たくなる。幼いころ、手が冷たいことに驚いて泣き出しそうになったこともある。母は「ほら、手を出してごらん」と言い、手を包み込んでくれた。俺の手よりもはるかに寒さを主張する手だったのに、「怖くないおまじないだよ」と念じるように擦り合わせた。母の手が前後するたびに、痛々しいあかぎれから、なまなましい血肉の口が開いたり閉じたりした。痛そうだなと思ったが、赤はどう頑張ってもぬくもりの赤に思えた。母は、しゃがんでいた膝を伸ばし、俺の右手をするりと持ち上げ、引っ張ることなく隣を並んで歩いた。冬はいつもこのようにして保育所から帰った。小学生になっても冬に外出するときは手を握ったり、母の上着のポケットに手を突っ込んだりした。「いつか好きな人とそんなことできたらいいね」と母が言っていたのはいつのことか忘れてしまった。もうずいぶん誰の皮膚にも触れていない。

 大きなサイレンが鳴った。脳髄に鋭い音が刺してきた。おそらく、街のスピーカーから聞こえてくるものだろう。さっき消したばかりの間接照明には、手を掛けなかった。窓を開けてみると、毛穴からサイレンの音を聞くことが出来た。なぜか、少し高揚した。

 「緊急ニュースです。何者かにより、犯行声明が出されました。今すぐ高台に避難してください」

 街は静まり返っているので、遠く離れた山にこだまする。話している人も焦っているのだろう。一つひとつの言葉に隙間がなく、ただ早口だった。跳ね返りを待つ前に次の言葉が捻じ込んでくる。スピーカーの言葉は、わんわんと言っているようで、ほとんど聞き取れなかったが、おそらくそんなことを言っていた。

 地震が来ただとか、大雨が降っただとかならまだわかる。しかし、ただの夜更けにどうして高台になんて行く必要があるのだ。犯行とか言っていたか。どこに誰に犯行声明を出したのだ。

 とりあえず寝ている母を叩き起こしテレビをつけた。どの局をつけても緊急ニュースだった。録画していた深夜アニメも、今や緊急ニュースが録画されているんだと思うと、突然腹立たしくなってきた。

 犯行声明とはこのようなものだという。

 ある男性がダムの施設をジャックした。貯水されているダムを一気に放流する。もしこのダムの水が全て流れ出すと、どの川も氾濫する。決壊する。しかし、猶予を与える。廃線となっている線路に、ゴンドラを用意した。一時間に数本、それを稼働させる。地上からは離れた山と山をつなぐ線路だ。それに乗れば安全な場所に避難できる。では幸運を祈る。

 犯人の顔は勿論だが公開されることはない。目的もさっぱり分からない。ただ、隣にいる母は震えている。幸い、俺たちの家は川からは少し距離がある。そして例のゴンドラにも近い。母はすぐに行こうと言った。なんとなく俺は学ランのポケットに手を突っ込んでいた。どうして学ランなのかというと、実は昨日の夜、着替えるのがとてつもなく面倒だったからだ。何かゲームのイベントがあって熱中していたわけでもないし、風呂に入ることに抵抗があるわけでもなかったけれど、着替えることに気力を回すのが面倒だった。母の帰りは遅いと聞いていたので、夕飯も賞味期限が明後日までのスティックパンを消費しただけだった。何もかも無駄だと感じているわけではない。ただ昨日はそういう日だったのだ。

 「防寒だけはしっかりした方が良いね」と言い、俺の首にマフラーを巻いた。母も同じくマフラーを巻いた。手が寒かった。

 小走りで高台に向かう。どうしても息はしないといけないので、自然と口や鼻から白い煙のようなものが出た。少し前を行く母のそれが、俺の顔にかかる。俺よりもかなり呼吸に乱れがあり、顔の全面にかかるような形だった。俺の吐くものも、誰かの顔にかかっているのかも知れない。誰かにかかる前に夜気に溶けてしまうほど、悠長な夜ではないのだけはわかった。

 「防寒だけはしっかりとした方が良いね」と言いつつ、中途半端だった防寒であったが、これでよかったと思った。高台に向かう人で密集し、とにかく暑かったのだ。マフラーを外したかったが、人の混みあいで上半身の自由は利かず、僅かに空白の空いた膝から下のみを動かしているようなものだった。母とははぐれることはなかった。手をつないでいたわけでも、母のポケットに手を突っ込んでいるわけでもなかったが、物体以外のものが俺たちを繋いでいたのかも知れない。

 一時間に数本動かされるゴンドラが動く様子が見えた。観覧車の一つのようなサイズで、形もよく似ていた。近くに廃園になった遊園地がある。そこから引っ張って来たのかも知れない。ゴゴゴガガと本当に助かるのか不安になる音と、本当に助かるのだという安心感を抱いた人々を乗せて動く。高台の線路を動く物を、命のつなぎ目だと羨むように人々は見上げていた。その奥にある星は、おそらく雲の裏側に潜んでいる。

 待ち時間が長く、夜明けを迎えてしまった。川がある方から、濁音が響いてくるような気がした。巻き込まれた人はいるのだろうか。犯人がレバーを一つ引いただけで、人々の不安を簡単に煽っているのだ。俺はこの煽りにうまく乗ることが出来るだろうか。 

 どこから情報が流れてきたのか。もう一つゴンドラが用意されたらしい。俺の後ろを歩いている人は、ほとんどそちらの方へ行ってしまった。さすがに、同じところに何時間も待たされていたら、気が狂ってしまう。同じ服の色、同じ頭の形、とことん同じ景色を見るよりも、気分を変えたいという気持ちの働きも含んでいるのだろう。俺としては、後ろにもたせ掛けるものがなくなって、少々気後れした。

 ゴンドラが間近に見えてきた。もう何回も行き帰りしたゴンドラを信用するのは難しい問題だった。明らかに疲弊しているだろう。こいつがどこへ行くのかも知らない。知りもせずに並んでいたのか。普通のアトラクションであれば、乗った場所と同じ場所に帰ってくるものがほとんどだ(俺が乗ったことあるものに限るが)。降ろされた先が違う所だと感じることはある。アトラクションに物語やミッションが施されていて、乗物から降りて地に足をつけたときには、別人になっているような感覚になるのだ。俺はヒーローか何かか? ヒロインを救った王子か? と錯覚する。その時は、目に入るものが輝いて見えるし、自分の背丈が十センチほど伸びたような気がした。たとえ同じ場所に戻っていたとしても。今目の前にあるゴンドラは、どこへ行くのか。昔見た絵本にあったように、線路の途中で人食いの何かが現れるかもしれない。現に、誰からも「助かった」という報告がないではないか。何があったのか知らないが、邪悪な観念を持った犯人という一応「人」を、そこまで信じていいのだろうか。

 いよいよ俺も乗れそうな番だ。文字通り「おしくらまんじゅう」状態のゴンドラの中に母は足を入れた。満員だった。俺は、一目でこれに乗ることはできないと察した。そして必然的にゴンドラの扉を閉める係になった。母は扉に背を向ける形で乗ったので「乗って」という言葉は俺に向けれられなかった。どこで誰が確認したのかは分からない。もしかしたら犯人が遠隔で操作をしているのかも知れない。ゴンドラは勝手に動き出した。俺の名前を知っているような声で、知らない声量で聞いた。

 単純に「暇だなあ」と思った。ゴンドラが帰ってくるまで、いくらか時間がかかる。俺の体内時計は信用ならないので、「十分くらい」とか大雑把なことは言えない。とにかく暇だった。そこら辺に生えている雑草を、常識のある範囲で蹴った。頭がかゆく感じたので手を頭の方へ持ってきたとき、今の今まで一度も左手をポケットから出していなかったことに気が付いた。確か扉を閉めたのは右手だったはずだ。三回くらい爪を立てて頭を掻いた後、刈り上げた後頭部を下から上に撫でた。頭を掻き、刈り上げ部分を撫でる重労働を成し遂げた左手を、ポケットにまた突っ込んだ。

 背後から聞き覚えのある音が帰ってきた。ゴンドラは無人だった。人食いの怪物が現れたかは、ゴンドラを見ても分からなかった。人間の血が飛び散らないように、上手に丸のみしたのかも知れない。

 俺は、ゴンドラに乗り込んだ。左奥の隅に腰を下ろし、小さな体育座りをして、できるだけ顔を膝の間に埋めた。肉のない膝が額に当たってほんのりとごつごつして痛かった。

 体内時計は信用ならないと言ったが、さすがに動き出すまでに時間がかかり過ぎだ。なぜか俺の他には誰も乗っていない。実際に見たわけでなく、気配がそう言っていた。もう一つのゴンドラに、思っていた以上に人が流れていったみたいだ。独り。俺は独りなのか。

 もしこのゴンドラを犯人が動かしていたのだとしたら、むずがゆくて吐き気がするだろう。無人と等しいこのゴンドラを動かすのは、非生産的過ぎる。このまま一人でいたらどうなるだろう。犯人はそれでも動かすのだろうか。俺だけを乗せたゴンドラに価値を見出して動かすのだろうか。しかし、このような残酷な犯行をしておいて、他人を価値のあるものに感じるのだろうか。自分自身すらも価値があると感じているのかどうか。俺を無価値だと認識していた場合、なんて無駄な時間が流れているのだと思うだろう。この状況を楽しむのも面白い。人が入ってこない間、苛立つ犯人の様子を想像すると、くぐもった笑みが零れた。

 その想像は長く続かず、俺は次第に飽きた。だから、学校に行ってみようと思った。無人になったときの犯人の表情を想像することに、何の面白みも感じなかった。俺自身の思い出を作りに行こうなんてものでもない。最後に知っている場所に行っておこうなんてものでもない。ふと学校に行ってみようと思った。ただそれだけだ。

 電気もついておらず、人気もない学校は、廃校した別の高校かと思った。もし別の高校だったら、制服が学ランじゃなかったらどうしよう、不法侵入扱いされてしまうとも思ったけれど、俺の通っている高校だったので少しほっとした。

 少し格好つけて窓ガラスを割って入ってみるのもいいかも知れない。どうせなら、昇降口ではなく、ただの廊下の窓を割ってやろうと思った。まるでそれがルーティンであるかのように、俺は右を向き、約八十センチの歩幅で三歩だけ歩いた。そしてもう一度左を向き、向かい合った窓ガラスに向かって石を投げ込んだ。「キャー!」という悲鳴が聞こえた。

 人がいる。おそらくこの学校の生徒だろう。俺と同じ高校に通う、同じくらいの背丈の同じような学力の人たちの誰か。今の悲鳴は女子っぽかったので、同じくらいの背丈ではないかも知れないけれど。

 とにかく、俺はできるだけ慎重に、まるで初めてその階段を上るかのようにして教室に入った。そこには、クラスメイトが数人いた。男女合わせて七人程度といったところだろうか。皆、同じ靴を履いていた。彼らは律義に靴を履き替えたらしい。

 「おう。お前もここに来たのか」

ここもなにも、今日は水曜日だ。学校側から休校の連絡はない。つまり、ここに来る義務があるのだ。ふらっと立ち寄ったような言いかたをされたのが少々気に障った。

「もしかして、窓ガラス割った?」

「うん。割った」

「びっくりしたよ。どうするのよ、そこから水が流れ込んできたら」

「私たち死ぬじゃん」

「こんな寒いのに冷水浴びて死ぬとかないわ」

「そうだ。俺たちは最後の思い出をつくりに来たってところなんだけど、お前はなんで来たの?」

「分からない」

「分からない?」

「うん。分からない」

「ははあ~。言えない理由でもあんの?」

「いや、別にないけど」

「それ、隠してるつもり? お前って確かこのクラスの高橋のこと好きだっただろ」

「は?」

「高橋の机触る絶好のチャンスだもんな」

「何言ってんだよ」

 俺は、冷静さを装ってあとに続けた。

「お前らは? なんでここに来たの?」

「だから、思い出づくりだって」

「思い出って……」

「そう。だって俺ら死ぬの確定じゃん? ゴンドラがどうとか言われたけどさ、そんなの乗った先に殺されるかも知れないんだぜ? 乗れっこねえよ。第一、俺ら修学旅行すら行けねえってどういうことよ。最後の文化祭も最後の合唱祭も最後の授業も、何もかも最後と感じることなく終わっちまったじゃん」

 クラスメイトはそう言うと、息を大きく吐いて窓ガラスを曇らせた。先ほど自分でつけた指紋を拭い取ろうとしていると見た。

「俺、学校、好きだったからさ……。家帰ってもギクシャクしてるし、本当に学校が俺の居場所だったんだよな」

 何言ってんだ。こいつが話す言葉、何もかもが過去形じゃないか。

「だから、ここは、天国なのよ。俺にとって」

「天国?」

「そう。天国。いいだろ? 天国で天国につれていかれるって。最高だと思わない?」

 天国。天国。天国……。天国に行けるかどうかも分からないような危うさの中で、生きてきた俺たちのはずだ。天国に行けるなんて確証はどこにあるんだ。なんだ。その死ぬってわかったような言い草は。自覚している? 死を覚悟しているのか? そんな覚悟で死ぬってできるものなのか? 知らないだろう。おまえは何も知らないだろう。俺だって知らないよ。誰も知らないんだ。知らないことを知ろうとも思えないんだ。なんで笑っていられるんだ。俺は死ぬのが怖いのか? いや、それは断じて違う。怖くはない。ただ死ぬとも思えない。超人だからとか、死ぬことのない体質だからとかそんな勘違いをしているのではない。なぜだ。どうして俺はこんなにも「怒って」いるんだ。何を確かめるために憤っているんだ。何を得るために、何を感じるために、何を説得するためにこの感情が沸いているのだ。分からない。

「うるせえな……」

「え?」

「うるせえんだよ! クソガキが!」

 どう動いていたかは分からない。マフラーを外してとにかく振り回して、目に入ってくる物を投げたり蹴ったりした。それは机やいすや教卓やチョークや、ありとあらゆる学校の所有物だったはずだ。クラスメイトには何も加えない。彼等は学校の所有物なんかじゃない。

 人の感情は天気みたいにコロコロ変わるという。しかし、天気ですら予想できるのだ。明日の天気が分かる。一週間後の天気も大体予想がつく。現に、今日は昨日の「曇り」予想がどんぴしゃりと当たったではないか。俺は、この感情が予測できるとは思えない。何に出くわして、何に動かされていくのか分からない。そんなもの天気と捉えられようがないではないか。俺は、今日の俺が、こんなに荒れ狂っているとは思ってもみなかった。

「おい……。落ち着けって」

「うるせえよ! わかんねえよ! 何もかも! 何にもわかんねえんだよ!」

 俺の叫び声の合間を縫って、女子の啜り泣きが聞こえてきた。この狂った言動が、一時的なものだということ、他人に迷惑をかけるということ、爽快感が待っていないことには気づいていた。それでも、俺の肉体と本能が得体のしれない何かに突き動かされて制御が利かない。死ぬ前に、一回反抗でもしてみたかったのだろうか。もしそうなら、周りを巻き込んだ罪悪感、死を覚悟した人間を嘲笑った愚かさがやってくる。それを否定したくて、何もかもを否定したくて、本能に従い続けた。無意味だと、無価値だと悟っていたとしても。

 肩で大きく息をしている、お前はもう疲れているはずだ、と第三の俺が言った。そこで、「……ごめん」とだけ言って教室を出た。また、俺の名前を知っているような声が、知らない声量で呼んでいた。

 歩みを進めるのは苦痛だった。着衣水泳の後のような重たさを、ずっと纏っているような感覚だった。俺は、小学校の頃に一度だけ高熱を出して早退したことがあった。「一人で帰れます」と言った。母は仕事で迎えに来ることが出来ないと察したから、一人で帰る選択をした。誰の手も借りないことは心地よくもあったが、何にもこの怠さを預けることが出来ないことは不快だった。その不快さを今まで忘れていたことが不思議だった。

 学校とさほど距離のないところに線路がある。これは廃線になったものであり、ゴンドラの通り道だ。線路の上をなぞるように歩く。俺が乗ったときには誰一人として乗ってこなかったのに、今は満杯になっている。ひとりでに扉が閉まった。俺が手動で扉を閉めたときに感じた抵抗感は、遠隔で閉められる扉が、俺に抗っていたのかも知れない。

 線路に立っている俺が言う。「ああ、俺は助からない」