サーカス

 私はサーカスに行った。友人がどうしても「サーカスに行きたい」と言ったのだ。待ち合わせ場所に着いてみると、サーカス会場というよりは遊園地に近いような雰囲気だった。もしかしたら、遊園地の中に組み込まれたプログラムとしてサーカスがあり、友人はそれを観たかったのかも知れない。

 地面は舗装されていない黄土色の土が剥き出しになっている。人が歩くたびに土埃が立つ。地面を見ながら歩くからよく分かる。今にも馬車が走ってきて私に突進してきそうな雰囲気だ。多分私の引きずった歩き方では土埃は後ろに立たないだらう。とぼとぼ……私が足を出そうとする位置だけがぼやける。建物は全て濃い赤の壁。金色の文字。金色の柱。窓の縁も金色。中を覗くとお土産屋さんがずらりと並んでいる。黄色いブラウスに小さな花が散らしてあるスカート。ふんわりと腰から下げるエプロンをしたふくよかな店員さん。スカートとエプロンは恐らく指定のもの。売り込もうとしているのか、ただのコミュニケーションの一環なのか、やたらと私に向かって笑顔で手を振ってくる。笑顔の威圧。そのふくよかな頬に両側から挟み込まれていく。どんどん頬は膨らんでいき、私は窒息する。そんな妄想をするのも容易。とにかく「陽気」がここまで似合うのはここだけかも知れないと思わせる街のようにも見えた。

 歩く。歩く。とぼとぼ歩く。どうしてこんなに私の周りだけ重力が倍以上にかかっているのだろうか。

 友人はこの園の奥の奥にいた。彼女もまた周りと同じように笑顔を膨らませながら頭の上で手を振っている。どうやら大人の男性と一緒だ。何かポリバケツを二つ持っているぞ。何かしら。彼女の笑顔が恥として回収される前に、私は小走りで彼女の方へ向かった。ようやく土埃が後ろへ舞った。

「やっと来た!遅いよ!」

「ごめん。ここに来るの初めてやったから、見渡しながら来ちゃった」

「それもそのはず。ここは少し前のヨーロッパをイメージして建てられた施設だからね」

私の聞いたことのない声。男性の声。音も胸板も分厚い。ポリバケツが二つ……

「この人は、私の知り合い!サーカスの団員さんなんだ。久しぶりに日本に帰ってきたから、ぜひあなたを連れてきたくって」

 友人は私を見ている。何の説明もなしにただ「サーカスにいこう!」とだけ言われて来たのだ。ヒョコヒョコやって来た私にも責任があるが、ここで何か一言を求められると困る。たじろいでしまうではないか。私はあなたほど興奮していないという態度を出すと、この全ての空間を台無しにしてしまう。私の主張はその勇気に勝てるわけでもない。ただ「そうなんや」と初めて笑顔を見せた。

 光沢もない、くすんだ青をベタ塗りしたようなポリバケツが二つ。メーカーのシールも貼られていない、使い込んだようなポリバケツが二つ。息をしていないポリバケツが二つ。無機質なポリバケツが二つ。

 サーカスの団員さんなのだから、何か道具でも入っているのだろう。私は気にせず会話に戻ろうとしたのだけれど、視線は意識よりも一つテンポが遅かった。ポリバケツを見ていたことにきづかれてしまったのだ。

「気になるだろう?このバケツ見てみなよ」

 はいかいいえの選択肢もないままポリバケツの中身を見せられた。

ーーーーーーウサギ。

 ぎっしりと敷き詰められたウサギ。これはミニウサギの赤ちゃんかしら。灰色のウサギ。淡い茶色のウサギ。ウサギ。ウサギが確かにそこにいた。ウサギは皆仰向けになっている。前足を行儀良く揃えている。バケツの中心へ頭が向くように、後ろ足がバケツの内側に沿うようにみっしりと円状に並んでいる。生まれたての綿毛のような、ふわふわとした毛を身に纏っている。頬のような口元のような部分が特に豊かだ。短い耳はピンと立っている。薄い皮膚からは血管が見えた。耳にも血が行き渡るようになっているんだなぁ。でも何だろう。この妙な違和感は。

「この子たちはね、サーカスに出る予定なんだ。どうだい?かわいいだろう?」

 私は、この男性が話している間に分かってしまった。罪だ。あぁ、この奇妙さはこの人の凶器だ。

 ウサギの下には、氷がガラゴロ重鎮しているのだ。つまり、ウサギはその上に寝転ばされているような形なのだ。ほとんどのウサギの鼻が動いていない……

死んでいる

 直感だった。ウサギは、活動している間は鼻をひくひく動かすが、眠る時は鼻を動かさない。だから、このウサギたちは眠っていると捉えることも出来る。いや、それでも死んでいるようにしか見えない。私の五感をフルに働かせたのではない。五感を超越したところで感じたのだ。私の脳内に「ウサギの死」の文字がちらつく。それはやがて濃くはっきりと硬い文字になっていき、次第に脳内は埋め尽くされた。このウサギたちは死んでいるのだ……

こいつは、ウサギを殺したんだ。

この固い氷の上で長時間強制的に過ごしたウサギたちは、氷に体温を吸収され、誰かのぬくもりも知らずに死んでいったのだ。氷が溶けてないから、何度も入れ替えたのか、あるいは、直前まで氷水にバケツごと浸していたのかも知れない。一つの命は、命として生まれて来た以上、命だ。命じられるための命ではない。ただ少し身体つきが良いだけで威張れるものではないのだ。こいつの胸板に永遠に再生される傷をつけてやりたい。死ぬのではないのだから、これぐらいのことではこのウサギたちに顔向けできないだろう。

 でも、もしかしたら実はもうウサギは死んでいて、骸となったウサギを腐らせないように氷に乗せているのかも知れない。この男の善意なのか悪意なのか。

 何もわからないまま立ち話は続いた。大量のウサギが入っているバケツを持ちながら話せる屈強な肉体……やはり殺したのか?この可愛らしい小さな命を。

「よう!今日もいい天気だなぁ!頭が痛いぜ!」とまた別の男の声が聞こえた。そうだな。その皮膚が表につるんと出ている頭なら、この日光は堪えるな。

「そういえば、昨日ウサギ、いただいたんだが…俺の調理法が悪かったのか、少し内臓が良くなかったよ」

「そうか……残念だなあ」

 そうなのか、食用のウサギだったのか。この地方ではウサギを食べる習慣があるのか。

「あ!」

 友人の声が耳に障る。

「この子、まだ生きてるんじゃない?」

 この言葉で、私の予想は当たっていたと分かった。やはりウサギたちは死んでいたのだ。彼女が指さした先にいたウサギは、僅かながら鼻を動かしていた。ゆっくりと動くその鼻先を、つんと指先で弾いてやりたい衝動に駆られる可愛さだった。生きている。まだ心臓が動いている。辛うじて血液を巡らせている。氷で冷却された青い血を。

「私、この子、欲しい!」

友人はバケツを持つ男にこう言った。

「だって、やっぱりかわいそうに思っちゃうなあ。まだ死んでないんでしょ?いいじゃん!ね?知り合いに免じて!お願い!」

 そんな手を顔の前に合わせて許しを請う暇があったら、早くそのウサギの子を抱きしめろ。このか弱い命の糸を延ばせ。太くしろ。早く。早く。

「……分かった。今回だけな?育て方はまた俺に聞いてくれや」

「ありがとう!」

友人はその茶色がかったウサギを掬い取って胸の前で抱いた。彼女の体温がウサギの体温へ。ウサギの冷たさは彼女の体温と綯交ぜになって一つになった。その瞬間、彼女の顔が母親のような顔になったのを私は見逃さなかった。どくり。どくり。彼女の心臓の音と、ウサギの心臓の音が重なる。そして一定のテンポを保つ。私は、その一連の間手を湿らせながら真横に吊り下げているだけだった。

「この子の名前、何にしようかな」

「良かったな。いい名前つけてあげ」

 友人は初めてペットを飼うことになったようで、嬉しさが零れ落ちていた。ウサギも徐々に回復しているように見えた。

 会話の間にも、私はバケツの中にいるウサギを盗み見る。すると、一匹のウサギの前足が動いた。初めは右前足だけだったが、続けて左前足も、不器用に不揃いに動かしている。ジタバタしている。動きは次第に過敏になっていく。しかし、両端は骸に挟まれていて身動きは取れない。

 私はどうする?このウサギに手を差し出すのか?この、命を急に取り戻したようなウサギを私はどうするのか?啼け。啼いて自分の存在をアピールするのだ。なぜ?なぜウサギに啼くという技術が備わっていないのだ。それなら、私がこの子の無声に答えればいいのだ。私の手をもって救えばいい。よくここまで耐えたねと褒めてやればいい。何をしている。手を動かせ。あのジタバタを押さえつけるために手を動かすのではない。あの場から解き放つために動かすのだ。動け。私の手。今この意思と連動させて動くんだ。

 動かない。怖い。骸と骸の間にいる、骸になることを拒んだウサギを抱き上げるのが怖い。骸に手が触れるのが怖い。もしかしたら抱き上げた拍子に暴れるかも知れない。怖い。

 私は、また何もできないのか。

 私はウサギを飼っていたことがある。姉が「家族として迎え入れたい」と言ったのだから、私はあまり世話をしなかった。そのウサギは美しい灰色のウサギだった。親バカという言葉もあるが、この子はとても美人だった。それでも、天寿を全うしたウサギに対して「ごめんね。ごめんね。私何もお世話してなくてごめんね……」と繰り返していた。思わず過呼吸気味になり、そこで言葉を終わらせてしまった。「ありがとう」の言葉も言えなかったのだ。私に続いて発した姉の言葉は「ありがとう。だいすきだよ」。これが正解だ。

 私は、また何もできないのか。

 その出来事がフラッシュバックしている間に、「時間だ」と言って男がバケツを持って遠ざかっていく。

 私は、また何もできないのか。

 友人はにこやかに男性を見送る。私に「サーカス楽しみだね!」と声をかけてくる。鬱陶しい。

 私は、また何もできないのか。

 あの子が泣いている。見ていられないほど哀愁を持って泣いている。こちらを見ている。あの子は泣いている。

 私は、また何もできない。

 私はムキになってとにかく走り出した。ウサギとは逆方向だ。何も思い浮かばない。浮かぶとすれば、あのもがいているウサギだけだ。張り付いている。そこに向かって走ればいいのに。どうして私は別の方向へ走っているのか。

 通り過ぎる店員のスカートをひらりと捲らせながら走る。勢いは止まらない。土埃が風に流される。

 どういうわけか、私は園内のお土産屋さんの一軒に入っていた。まるでそこが家であったかのように、すんなりと足が屋根裏部屋へ動く。あの時手は動かなかったのに、今足は容易く動いている。足の、意思に対する率直さを恨んだ。

 しばらく膝に顔を埋めていた。出来るだけ小さく小さくなって、この圧縮で自分の身が破裂してしまえばよかった。涙は出なかった。絶望……後悔……知っているネガティブな言葉が通り過ぎていく。そのどれにも当てはまらない憎い感情が渦を立てていた。

 幸い、屋根裏部屋は暗かったが、私の気持ちを落ち着かせようとはしなかった。ウサギの足が瞬きのたびに映る。そうなるのが嫌だったので、瞬きをしなかった。初めて涙を流した。乾燥で涙したのだ。

「おーーーい!」

 外から声が聞こえる。小さな窓から顔を出すのは億劫だったが、友人の声だと分かった。

「何があったか分からないけど、私はあなたが素敵な人だって分かってるよ!」

 声が増えていく。知らない声。

「お嬢ちゃん、出ておいで」

「ここには楽しいことがあるから、はしゃいで忘れよう!」

「美味しいお菓子もあるよ」

「ねえ、みんな何叫んでいるの?」

「とりあえず、何か前向きになることを言うのよ」

 部屋の中の静寂で、外の声は輪郭がはっきりとする。きっと、友人が叫んでいるのを見て、皆が力を結集させて私をここから引きずり出そうとしているのだ。私は誰からの共感も求めていない。励ましだって甘くてベトベトする。中には訳が分からず叫んでいる人もいる。そういう人は大体嘲笑を含んだ叫び方をする。子どもが不思議そうに見ているだろう。今すぐに記憶を削除してあげよう。この恥を露わにして。

 私は、また何もできない。でも、これなら……

 窓を開け、顔を出す。これが無様な人間の顔だ。どうだ。醜くて仕方がないだろう。